2008-02-07

ドストエフスキー『罪と罰』について(1)

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 最近、また『罪と罰』を読んでいる。もう何度目だか分からないがこの本は読むたびに新しい発見がある。本当に腰骨の芯から痺れさせる本だ。

ドストエフスキーの凄いところは小学生でも面白いところだと思う。特に『罪と罰』はその冗長な語りが読書速度の遅い小学生にはつらいにしても、それぞれの込み入った事情を抱える感情的・知性的に極端な登場人物が演じる緊迫した各場面が、入念に編み上げられているのだから、細かいところは何も分からぬとも、筋の面白さ一本で面白く読めてしまう。

なにせ主人公はばりばりニートな引きこもりで、やばい思想を頭に一杯詰め込んで婆さんと娘を斧で打ち殺し、その後は生意気に警察とデスノート状態の問答をするし、飲み屋で会うおっさんは酒で身を滅ぼし、娘を売春婦にしてもなお呑み続けて(しかもその娘の金で)、肺病病みで精神もきちゃってる奥さんと子供三人残して馬に蹴られて死んでしまって、奥さんは葬式の日に気が違って橋で子供を踊らせてそのまま血を吐いて死んでしまうし、主人公の妹は勤め先の主人にセクハラされて変な噂立てられて、貧さ故にナルナル自己チューな男に嫁ごうとしてるし、んでもってそのセクハラ親父は奥さんバラして、彼女に言い寄ってダメんなるとピストルで自殺しちゃうし……ってこんなめちゃくちゃな状況がいっせえのせ!でぶわって破裂して雪崩を打つように物語は進んでゆくわけで、まあ、もう、ひどいったらありゃしない。それでいてエログロなしなのでお子様も安心というわけである。

小学生の僕は「こりゃねえだろ」と思って読んだという記録がある。当時の読後感によれば、面白かったが実感がないというようなことが汚い字で書いてある。

その面白かったというのも、どちらかというとコメディーとして読んだというような印象である。つまり「普通なら、事態がこんなに酷くなるわけないけど、もしも、こんな異常な人が集まって、事態が酷くなっていけば、見ている分には面白い」というような醒めた視点である。

いま思えば残酷な物言いだが、子供というものは現実がまさに残酷であることを知らないから、極端に残酷なことも言えるのだとぞっとする。ちなみに私は幼い頃から残酷な物言いをする人間だった。私のような子供は『罪と罰』を笑って読んでしまうのである。

そんな私でも歳を重ねるにつれ、ドスト氏の小説は実感を持って読めるようになる。後に「熱病のような目つき」を見ることになるだろうし、意地の張り合いで崩壊してゆく人間関係も実体験することになる。だから、読むたびに凄いなと感じる。

元来生意気でナルシストな私はラスコーリニコフの思想を理解するのに苦労はなかったし、酒飲みのマルメラードフの気持ちも理解できるようになった。何個かの彼の台詞はお気に入りである。マルメラードフの奥さんであるカチェリーナの演じる各場面も大きな教訓として私の心に刻まれているし、ラスコーリニコフの妹ドゥーニャを追うスヴィドリガイロフの気持ちも、また、ドゥーニャの婚約者であるルージンの気持ちも理解できる。

つまり「ああ、いるよな」とか「ああ、こういう気持ちになること人間ってあるんだよなあ」という感覚になってゆく。そして、その度に、そうした描写や台詞、あるいはドストエフスキーの分析やコメントの鋭さを感じる。

ただ私は今もまだ若いのであり、全ては読めていないと感じている。まだ「これはないだろ」と言いたい言動がいくつかある。それが、そのうちに「なるほど」と読めるようになってしまうのだろうか。なんだか、あまり嬉しくないが。

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ドストエフスキー『罪と罰』について(2) あらすじと内容構成